- 家族でマレーシア移住体験談
- マレーシアの日本人学校事情
- 発展途上中の中心街
- タクシーの乗車で気をつけていた事
- マレーシアの当時の日本人人口
- マレーシアの携帯事情
- マレーシアで触れる事ができた日本のもの
- マレーシアのお水事情
- 意外と恵まれていたマレーシアでの移住生活
家族でマレーシア移住体験談
私がマレーシアに住んでいたのは、1999年の春ごろからの約1年程の事でした。その時の私はまだ小学5年生の11歳。
住んでいたのはクアラルンプールの中でも学校にほど近いアパートメントでした。
父の仕事の都合で転勤という形で、家族全員でマレーシアに移り住み、移住体験をすることになりました。
マレーシアの日本人学校事情
私が通っていたのはクアラルンプール日本人学校でした。幼・小・中一貫校で、校舎がとにかく広かったのを覚えています。
小学校と中学校のそれぞれの体育館と校庭があり、東側が小学校用・西側が中学校用だったと記憶してます。
校庭は砂ではなく、芝生でした。おそらく熱帯地域だったからこその配慮だったのではないでしょうか。年中常夏のマレーシアでは地面が熱を保ちやすいので、少しでも涼しくなるように芝生にしていたのだと思います。
発展途上中の中心街
今でこそクアラルンプールに大きなショッピングセンターや大型デパートメントストアが立ち並んでいますが、当時はまだまだ発展途上の真っ只中でした。
日本の大手百貨店である『そごう』や『ジャスコ』も当初すでにクアラルンプールにありましたが、今ほど多くのブランド品や富裕層が好みそうな趣向品はまだありませんでした。
日本人学校の場所は、クアラルンプールの賑わう中心街よりも離れた場所にあったため、ショッピングモールに行く機会がある時は、一大イベントのように感じていたのを覚えています。
タクシーの乗車で気をつけていた事
今でもよく覚えているのは、クアラルンプールの治安はあまり良くなかったため、あまり自由自在に移動できなかったという事です。
今はあまりマレーシアに行く事がないのでわからないのですが、当時街に出向くには自家用車かタクシーしか手段がありませんでした。タクシーを利用する場合、気をつけなければならないのが料金設定でした。
通常、タクシーには料金メーターがついているのですが、メーター自体の電源を入れずにいきなり高値を吹っかけてくる悪どいドライバーも存在していました。そんなタクシーに当たってしまった場合は、走り出してしまってもすぐに降りるようにしていました。
当時のマレーシアの治安は、そんな事を考えなければならないほどに悪いものでした。特に私の場合、自由に行動ができなかったため、母が人一倍気を付けていたようでした・その時すでに海外生活としては3年目を迎えていました。
それまではシンガポールに住んでいたので多少のハプニングには対応できるようパニックに落ちることは有りませんでしたが、日本とは違った環境の変化には、徐々に柔軟に慣れていきました。
マレーシアの当時の日本人人口
2000年頃のマレーシアの全体の人口が2271万人だったのに対して、日本人の人口はたったの約1万人…全体の1割に満たない数でした。
私はマレーシアに移住する前はシンガポールにいたので少し事情が違うかもしれませんが、大きく変わったのは周りの言語環境でした。マレーシアの公用語はマレー語で、多民族国家だったので中国語やタミール語も日常的に聞いていました。
あとは英語が使われる場面が多く、日本語で話す機会は家族や学校の友達との会話に限られていました。
幸い、私達家族は転勤という形でマレーシアに移住したので会社の方で用意してもらった日本人が多く住むアパートの一帯に住んでいたので、日本語から離れるような事は有りませんでした。
マレーシアにいながらも日本の学校と同じような教育を受けられました。もしマレーシアの地元の学校に編入していたら、今の私がここまで問題なく日本語を扱える事はなかったでしょう。当時の会社の配慮にはとても感謝しています。
当時の日本語放送は、午後6時からい時間だけあるニュースぐらいでした。その他にあった日本のものと言えば、現地の言葉に吹き替えられたアニメでした。
日本のバラエティー番組が見たい時は、レンタルビデオショップに行って貸してもらうしかありませんでした。当時小学校5年生だった私向けの番組は、音楽番組ぐらいしかなかったと思います。年末年始にも日本語放送はなく、紅白歌合戦も当日のものではなく後日録画されたものを見ていました。
そんな時代のマレーシアと比べると、今のマレーシア経済は大きく成長しました。
マレーシアの携帯事情
当時の携帯電話はまだパカパカ開く、いわゆるガラケーでした。
小学生の私は持たせてもらえませんでしたが、父が会社の人達と連絡を取るためにもっていたのを覚えています。
ただし、日本語が打てるものではなかったので、本文はすべて英語でした。
マレーシアで触れる事ができた日本のもの
幸いな事にマレーシアにはHMVといったCDショップや日系書店の紀伊國屋がすでに存在していました。マレーシアで当時人気絶頂中だったSPEEDのファイナルアルバムを購入した事をはっきり覚えています。同級生の子達と一緒に聞いて歌って楽しんでいました。
日本の食料品も多くはないけど、輸入されていました。移住した不便さを感じながらも、なかなか楽しい時間を過ごしていたように思います。
日本人学校に給食はなく、毎朝母が早くから起きて弁当を作っていたのをよく覚えています。弁当に入れるための冷凍食品が数多く輸入されていた事は、彼女の弁当作りに相当役立っていた事でしょう。今でも日本製のキャラクターもののふりかけやレトルトのカレールーなどがありました。
家の都合でお弁当が用意できなかった時には、朝学校に行ってすぐに弁当屋さんに注文していました。この弁当屋さんは毎朝注文を取りに来てはお昼に持ってきてくれる大変便利なものでした。
小学生が大好きそうな献立…スパゲッティーやカレーやお寿司といったものを用意してくれました。お昼の時間に合わせて作ってくれていたので、毎回あったかいものを食べられた事が今となってはなんと幸福な事だったのでしょう。当時の小学生にとってごちそうと呼べるものでした。
意外と多く揃っていたのが、日本製のお菓子類です。
アイスやスナック菓子が豊富にならんでいました。残念ながら日本製のジュースはあまり輸入されていませんでした。地元のフルーツジュースや牛乳を日常的に飲んでいました。
マレーシアのお水事情
マレーシアの水道水には、時々泥が混じる事がありました。
その為、キッチンのシンクの蛇口のすぐそばに飲める水に即座に濾過してくれる浄水器が設置してありました。その機械を通した水や、ペットボトルのミネラルウォーターは安心して飲めました。
環境的にも、当時のマレーシアには不安要素が残っていました。
意外と恵まれていたマレーシアでの移住生活
振り返ってみると、何不自由なく生活できていた事がどれだけ幸せな事だったのか改めて感じました。日本語の環境が整っていた上に衣・食・住で不便さを感じた事は有りませんでした。
この体験談は、私の一生の宝物です。
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